小野利の歴史


戦前の小野利  繁栄時代


初代 小野 利兵衛は 明治22年(1889年)  
当時の大阪市中央区南本町3丁目4番地の場所で    
「小野 利兵衛 商店」を開業

関東織物を中心にあつかっていた 「小野 利兵衛 商店」は やがて息子たち
小野 利三郎 商店
小野 孝次郎 商店

 
小野 辰三郎 商店 

に引き継がれ 明治。大正年代〜昭和初期年代を通して戦争前後の未曾有の好景気に支えられ
 一族の商売は繁盛いたしました。


戦前当時の小野利の店員は丁稚100名を超えていたといいます。
100人の丁稚がそろばんをはじき 荷造りをして出かける立ち働く様子は どんな景色だったのでしょうか。

当時の配達配送は すべて人力と自転車でした。







photo 小野利商社社員旅行より



高島屋飯田(後の丸紅) 伊藤忠兵衛(後の伊藤忠商事)も 当時同様の船場の大繁盛店でした。







戦後の小野利 復興 躍進時代

しかし 昭和に入り 満州国をはじめ急激無謀な大陸進出の結果 大東亜戦争が勃発し
戦局は次第に悪化 米軍の本土爆撃が始まりました。




1トン爆弾(複製模型)  ピースおおさか提



大阪大空襲で商都大阪は廃塵に・・・




昭和20年敗戦時の大阪船場です。


1945年3月13日で 商都大阪は一面の焼け野原となりました。

現在の商社丸紅(丸紅飯田)付近が 戦前の小野利跡地です。




「どぶいけ」という地名は 大阪のど真中にある街・船場(せんば)の繊維問屋街の中にある商店街です。
漢字で書くと「丼池」です。

街の一角というよりも 南北に通っている道筋のことです。

丼池(どぶいけ)が戦後 久宝(きゅうほう)中学校となり 
現在は久宝(きゅうほう)公園・船場パーキングとして残っています。






昭和22年戦後 旧店舗の復興に伴い 
先代の小野孝商店・
小野平三郎と小野利商店・小野利雄 小野久次郎ら3人によって
現在の場所 丼池筋問屋街に店舗を移しました。



5代目 小野 平三郎は 日本最後の天皇護衛騎兵でした。









photo 店主アルバムより




戦後より 関東織物や銘仙をたくさん商ってまいりました。
やがて 関東織物・銘仙・京染・西陣織物の専門商社になっていきます。



また社名も近代化に伴い 
「株式会社 小野利商社」となり
繊維総合商社になっていきました。 


昭和47年当時の新社屋



上記像の小野利OB/OGの皆様 初期の小野利のために援助いただいたお得意様
全国の生産産地メーカーの皆様 お取引各位のご努力に深く感謝いたします。


平成17年1月17日 阪神淡路大震災直後で再び大阪も被災いたしましたが
おかげさまで当店は被災を免れ 町並みも復興いたしました。




現在の店主は 6代目小野 博三 です。

あいにく2007年に脳卒中で倒れ 緊急入院をいたしました。
おかげさまで 手術は成功しましたが 店主は 只今リハビリ&自宅療養中です。

恐れ入りますが 本町の船場店は 現在休業中です


 ※当面の間 インターネットによるHP販売・ヤフーオークションショップによる販売を中心に
営業いたしております。




移り行く商都 大阪船場


大阪は八百八町といわれる水の都であり 船場をはじめとして市内には 川や運河が縦横にはしり
川舟が貨物の搬送を行ったり 人を運ぶなど 川が重要な交通路となっていました。

このような背景から道路には 馬車 荷車
 自転車が通る程度で
自動車やオートバイ トラックは僅かなため 子供たちの遊び場でもありました。

しかし 大正の中ごろから昭和はじめにかけて 商工業の発達とともに人口が増加し
貨物の流通が頻繁になり交通量も増えたため 阪神高速をはじめ 現在の御堂筋や堺筋
中央大通りなどが整備され 現在の商都大阪船場が出来上がりました。



船場の問屋街も日々姿を変えています。
昭和初期から平成に入ってバブルの崩壊により 
大部分の顧客であった傘下の小売店は転業廃業が続きます。




現在は 南船場に シャネル ルイ・ヴィトン エルメス フェラガモなど皆様おなじみの
高級有名ブティックが立ち並び 町並みがすっかり変わりました。

お近くまでお出かけの際には ぜひ船場にお立ち寄りください。





船場 小野利の紹介